長尾屋のルーツ

平安時代~安土桃山時代

 長尾性の遠祖は桓武平氏にて大庭景宗の弟景弘(長尾次郎)であり、長尾為景、景虎(後の上杉謙信)の祖である。苗字の地は、相模国高座群長尾荘(現:大船駅前)と伝わり、家紋は三頭左巴である。この一族の分かれに、「子持亀甲剣酢漿草」という特異な紋をもちいる一族が香川県本島(現:丸亀市本島)に住居していた。

 この島は、塩飽二十何島の中心であり、海賊大将宮本佐渡守、その子助左衛門、吉田彦左衛門なども住居し、かつて塩飽諸島の行政を司る勤番所、真言宗寺院十一か所などがあった。この勤番所で政務を司った年寄を祖とする宗家の一族より出たる事は確かである。本島は、塩飽水軍の本拠地であり、造船も盛んであったので、中国山地に産する鉄及び吹屋の銅は必需品であった。そのため、これらの品を買付けに来たことが契機となり、吹屋に定住することになったと考えられる。

江戸時代初期~中期

 長尾孫左衛門が「長尾屋」という屋号にて商売で財を成し、吹屋の中心地である現在地に広大な屋敷を構えたのは享保年間(約300年前)徳川八代将軍吉宗の時代である(中庭の松の樹齢と合致)。爾来、中国山地のタタラでとれる鉄の問屋として、備前福岡の刀鍛冶へ、そして、備後鞆、讃岐琴平などの鍛冶屋へ販売して栄えた。

石燈籠
備後は鞆に遺された石燈籠には、寄進者として長尾佐助の名が認められる

江戸時代後期~明治時代初期

 江戸時代後期に家督を継いだ十三代佐助(彦十、亀遊、龍泉院)が、長尾屋の中興の祖となった。夫婦共々信仰心厚く、祖父母父母の供養塔を延命寺に建て、また、妻であるアサは、晩年、一字一石の写経をなし供養塔を墓地に建て、金毘羅宮吉備津神社、玉島円通寺などに寄進の碑が残されている。また、苗字帯刀を許され、町年寄として行政に参与した文書も残っている。1848年(嘉永元年)より吉岡銅山を請負稼業するほか、弁柄株二株、酒造株二株買収し、長男の良助(仙風)に家督を統括させ、林三郎に諸事、市三郎に外交と三兄弟を督励し、家業大いに上る。

 その後、林三郎に酒造株、市三郎に弁柄株を与え、新長尾、東長尾を立家させたという。この頃、庭瀬藩三宅家へ婿入りした長男の糺の請をいれ庭瀬藩費をも負担した文書が残されている。

明治時代以降

 良助の長男である佐助(青楓)は、1882年(明治14年)に家督を相続し、岡山県会議員、(玉島乙島地干拓の先駆者で著名な坂田貢が1900年5月に設立した)成羽銀行頭取、岡山縣農産株式会社取締役、山陽中央水電株式会社監査役、および、吹屋町長などを歴任し、近代日本資本主義の黎明期に活躍した。

大日本勧業博覧会褒状

 なお、佐助(青楓)の先妻くまは、福山藩の家老(大参事)の岡田吉顕(大審院判事、郡長(深津・沼隈・安那三郡(後、深安・沼隈二郡)、阿部家家令)の娘である。佐助(青楓)の長男廉は弁護士、三男隆は吹屋ふるさと村初代村長(重要建物保存地区)、四男正は官僚となり、激動の昭和の戦前戦後を駆け抜けた。廉の次男坦は、昭和中期に、長尾屋ゆかりの銅に着目し、特殊精密金型メーカーの長尾工業株式会社を創業した。

現在

長尾家の歴史

昭和15年頃、岡山県屈指の名士であった長尾佐助(青楓)とその一族
昭和15年頃、岡山県屈指の名士であった長尾佐助(青楓)とその一族
没年 活躍時期
孫右衛門 1723年(享保7年) 江戸時代初期
源次郎 1772年(明和8年) 江戸時代初期
仙八 1777年(安永5年) 江戸時代中期
吉助 1795年(寛政6年) 江戸時代中期
佐助 1842年(天保11年) 江戸時代後期
佐助(彦十、亀遊) 1877年(明治9年) 江戸時代後期
良助(仙風) 1890年(明治22年) 江戸時代後期
佐助(青楓) 1947年(昭和22年) 明治・大正時代
長尾家家系図